遺品を捨てられない4つの理由と対策
「遺品整理をしなければいけないのはわかっているけど、なかなか遺品を捨てられない…」という方は多いものです。捨てられない理由はほとんどの場合、ご自身でわかっているかと思います。しかし「理由はわかっていても、具体的にどうすればいいかわからない」という方が多いはずです。
この記事では、遺品を捨てられない理由ごとに、具体的な対策を紹介していきます。遺品を捨てられなくて悩んでいる方には、きっと参考にしていただけるでしょう。
- 遺品を捨てられない4つの理由と対策
- 精神面…気持ちの整理がつかない
- 物品面…捨てていい・悪いの判断が難しい
- 時間面…忙しく時間がない
- 能力面…自らも体調が悪く作業ができない
- 遺品を捨てることに罪悪感を感じる場合
- お焚き上げなどの供養をするのがおすすめ
- 故人は「物を捨てたら怒る人だったのか」を考える
- 物も学校も、常に卒業しなければならない
- 遺品はどこまで捨てるべき?3つの考え方
- 家中に物があるなら、その大半は要らない
- 本当に必要なのは写真・日記・手紙程度
- 売れるものは売っていいのか
- 形見を捨てられないときに意識すべきポイント
- 「形見分け」で押し付けるのは絶対にNG
- 形見は「一つか二つだから価値がある」と考える
- 動物は死者のことをいつまでも思ったりはしない
- まとめ
遺品を捨てられない4つの理由と対策
遺品を捨てられない方は多いものですが、その理由をあえて分析すると、下の4通りに分かれます。
精神面 | 気持ちの整理がつかない |
---|---|
物品面 | 捨てていい・悪いの判断が難しい |
時間面 | 忙しく時間がない |
能力面 | 自らも体調が悪く作業ができない |
ここではこれらの理由で「どのように遺品を捨てられなくなるのか」を説明し、その具体的な対策を述べていきます。
精神面…気持ちの整理がつかない
もっとも多い理由は、気持ちの整理がつかないことでしょう。これも大別すると下の2通りに分かれます。
- 遺品を捨てたら故人との思い出も消えてしまう気がする
- 単純にショックで、どんな作業も手につかない
簡単にいうと、できないのが「遺品整理だけ」か「何もかもできない」かです。後者は短期間なら誰にでも起こることですが、長期間になると少々重症なため、うつ病などが併発していないか調べる必要があります。
うつ病は「脳という臓器の病気」
うつ病は、昔は「心が弱い人が勝手に凹んでいるだけ」「自己憐憫しているだけ」というイメージを持たれていました。しかし、この10年ほどで社会の認知が大きく変わったのは、ご存知の通りです。
脳にも多数の血管や神経回路が走っており、電気信号が流れています。これは心臓などと同じ「内臓」のようなものであり、内臓である以上「調子が悪くなることはある」のです。
原因が家族の死でも、うつ病になったら治療が必要
少々厄介なのは、家族の死が原因でうつ病になった場合「時間が経てば治る」と誰もが思ってしまうこと。実際、多くの人は治ります。
しかし、これは普通の病気でも同じこと。普通の病気も時間が経てば治りますが、経っても治らないなら病院で診てもらう必要があるのです。
- 「時間が経つのを待つ」のは正しい
- しかし、それで治らないこともある
- 肉体の病気や虫歯なら、誰もが病院に行く
- しかし、脳に関しては行こうとしない
たとえば、家族の死がショックで胃潰瘍になったとします。時間が経っても回復しなければ胃腸科に行く―。これは当然でしょう。
同じように、家族の死がショックで「脳の胃潰瘍」になったのがうつ病です。しばらくは回復を待ってもいいのですが、回復しなかったら病院に行く必要があるのです。
鬱でも、鬱でなくても有効な対策
鬱病でも、鬱でないただの「一時的はへこみ」であっても、家族の死を精神的に乗り越える有効な対策があります。個人差はありますが、NHKが特集したのは「読書」です。
もちろん、これは「家族の死を乗り越える」というだけのテーマで特集したわけではありません。「長生きする人は、学歴に関係なく読書をする傾向が強かった」というデータが明らかになったのです。
アメリカ・イェール大学が発表した「読書と寿命」に関する論文によると、50歳以上・約3600人を「本を読む人」と「まったく読まない人」のグループに分け12年に渡って追跡調査したところ、「本を読む人」の方が2年近く寿命が長かったというのです。しかも、性別や健康状態、財産、学歴には関係なく、本を読むことが長寿につながっていたと結論づけています。
健康寿命を延ばすヒント3 運動より「読書」!?(NHKらいふ)
なぜ読書が有効なのか―。一言でいうと脳が別のこと(家族の死以外のこと)を考えるようになるためです。
お葬式でもっとも読まれる「蓮如の御文章」の例
たとえば、仏教では有名な「朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり」という言葉があります。「朝は元気だったのに、夜には白骨になってしまう。人間の命はそれほど儚いものである」という意味です。
これは蓮如の「御文章」の一説ですが、学者の中にはこの御文章を批判する人もいます。「同じような言葉の繰り返しが多い」「簡単な言葉しか使っていない」という理由です。歌でいうなら「子どもの歌のように陳腐」ということです。
五木寛之のエピソード
五木寛之さん(日本を代表する作家)も、若い頃はそう思っていたそうです。しかし、50歳頃にまだ若かった弟さんが亡くなり、そのお葬式で「朝には紅顔ありて…」という言葉を聞いているとき、涙が出たといいます。
「人が本当に悲しんでいるときや喜んでいるときに、難しい言葉はいらないのだ」ということを感じたそうです。このようなことは、普段は「頭でわかっているだけ」ですが、自分がそのような局面に置かれたときに「体で感じる」のでしょう。
蓮如の教えは、室町時代に文字を読めない農民たちの間で広まったものです。これが一向一揆につながったことは、歴史の授業で習った記憶があるでしょう。
まったく同じお経を、室町時代の農民も聞いていた
当時の文字を読めない農民たちも、現代人と同じ「朝には紅顔ありて…」という言葉を聞いて、涙していたわけです。これが現代語訳されたものだとあまり「つながり」を感じないかもしれませんが、まったく同じ言葉を、600年前の農民たちも、同じような場面で聞いていたのです。
このように「自分をいつの間にか離れる」のが、読書の意義
このように「死と読書」というテーマではいくらでも話題が広がるのですが、蓮如の御文章でなくても何でもいいのです。エッセイでも小説でも好きなものを読んでいるうちに「いつの間にか、自分を離れている」状態になるでしょう。
それを何度か繰り返しているうちに、徐々に家族の死を乗り越えられるということです。これは家族の死だけでなく、あらゆる悲しみや怒りを乗り越えるにも有効といえます。要は「自分を離れる」ということがキーワードです。
「自分を離れること」なら何でもいい
ここでは、文章で説明しやすい「対策」として、読書を挙げました。文章と直結するのは読書だからです。
しかし、本当は読書でなくてもかまいません。要は「自分を離れることができれば」いいわけで、運動でも音楽でも「好きなことをすればいい」のです。
運動や音楽の喜びを言葉で語ることはできないので、一番言葉で説明しやすい「読書」について語りました。しかし、本当は「何でもかまわない」と考えてください。
(そもそも、このような文章を読んでくださっている時点で、もう立ち直りつつあるでしょう)
物品面…捨てていい・悪いの判断が難しい
前の段落から一転して「事務的な話題」になりますが、下のようなケースもよくあるものです。
- 精神的にはまったく平気
- ただ、どれを捨てていいのか悪いのかわからない
このようにきっぱり割り切れるのも、それはそれでいいことです。人間は必ず死ぬものですし、「家族の死を悲しまなければいけない」などという法律もないからです。
そのようにスッパリ割り切った上で「どう判断するか」の対策を説明します。
迷ったものはすべて保留し、どこかに保管する
判断が難しいといっても「全部難しい」ということはありません。
- 明らかに必要なもの
- 明らかに不要なもの
- どちらかわからないもの
この3通りに必ず分かれます。そして、3つ目の「どちらかわからないもの」は、すべて保留してしまえばいいのです。
そして、どこかに保管しておきます。保管しておけば必要なときはいつでも持ち出すことが可能です。
逆に、一定期間まったく持ち出さなければ「ああ、これは不要だった」とわかるでしょう。必要か必要でないかの判断を「時間の経過にまかせる」ということです。
どこに保管するのか
これは下の2通りです。
- 遺族の誰かの家
- それ以外(レンタル倉庫など)
当然ながら、前者はその人の負担になります。後者はお金がかかります。当然「反対する人」もいるでしょう。
これが判断の鍵になります。つまり「反対する=捨てていい」ということなのです。
「いや、それは困る」というなら、その人が引き取るべきでしょう。「家にスペースがない」というなら、レンタルボックスのお金を出すべきでしょう。
このように「どこかで保管する」と決めるだけでも、物理的な事情によって「必要でない」という判断を下せるのです。また、誰にとって必要なのかも、個々人の反応でわかるわけです。
ある種の「踏み絵」のようなものですが、「保管する」という行為をフィルターにして、自然と必要・不要の選別ができるようになるのです。
なお、遺品整理で残すべきもの、そうでないものの見極め方については、下の記事で詳しく解説しています。
時間面…忙しく時間がない
「遺品整理をしたいけど、単純に忙しくて時間がない」ということも多いかと思います。普通に生活しているだけでも、社会人は忙しいものです。
そこに家族の看病からご臨終の立ち会い、さらにお葬式などの一連の流れをこなしたら、仕事もかなり滞ってしまうでしょう。その上さらに休んで遺品整理までするというのは、多くの人にとって難しいものです。
時間がない場合は、遺品整理業者に依頼するのが一番
このように時間がないときには、遺品整理業者に依頼していただくのが一番です。もちろん、他のサービスと同様に、専門家に依頼する以上は最低限の費用はかかります。
要は、その費用を上回るメリットがあるかどうかです。これについては、良い業者であれば当然メリットがあるといえます。多くの人が「メリットがある」と思って依頼しているため、今日まで業者がなくならずに存在しているのです。
このように「業者に頼むこと」自体のメリットは、確実にあるといえます。問題は「いい業者も悪い業者もいる」ということ。これは遺品整理の業界だけでなく、どの業界でも同じです。
良い遺品整理業者の選び方については、下の記事で詳しく解説しているため、こちらを参考にしていただけたらと思います。
能力面…自らも体調が悪く作業ができない
「精神的には落ち込んでいない、残すものとそうでないものの区別もつく、時間もある」という条件でも「能力的に作業ができない」ということもあるでしょう。
- 自らも病気で入院している
- 入院するほどではないが、満足に動けない
このような状況です。50代や60代などのまだ若い方でも、脳梗塞などの症状を起こしてしまうと、後遺症で満足に動けないことがしばしばあります。
(一時期世間を騒がせた「紀州のドンファン」こと野崎幸助さんも、あのキャラクターに似合わず、脳梗塞の後遺症でヨチヨチ歩きだったそうです)
このように、ある程度の年齢になると「体が動かない」ということがしばしばあるものです。この場合は、その他の条件がすべて良い方に揃っていても「遺品の片付けようがない」のです。
この場合は迷わずに業者に依頼を
この場合は、ご自身や周囲で片付けられない以上、遺品整理の業者に依頼していただくのが一番いいでしょう。もちろん、お子さんや親族の方、あるいはご近所の方などが手伝ってくれるのであれば、問題ありません。
しかし、おそらくそうでないため、遺品を捨てられずに悩まれているのではないかと思われます。この場合は、遅かれ早かれ依頼することになるわけですから、早めに頼んでいただく方がいいでしょう。
時間がかかるとお金をロスすることが多い
遺品整理で時間をかけてしまうと、さまざまな金銭的ロスが生まれます。具体的には下のようなロスです。
- 何かの定期引き落としがある
- 申請すればもらえたポイントや還付金などの期限が切れてしまう
こうしたものは「遺品整理をして初めてわかる」ことが多いものです。たんすの奥から出てきた通帳などをチェックしているうちに気づくことが多いのです。
このように、遺品整理にもある種の「賞味期限」があります。明確な期限があるわけではありませんが、どの道やることなら早くやる方がいいでしょう。
遺品整理の時期については下の記事でもまとめているため、興味がある方は、こちらも参考になさってみてください。
遺品を捨てることに罪悪感を感じる場合
「遺品を捨てるべきなのはわかっているけど、捨てることに罪悪感がある…」という方も多いでしょう。この場合はどのようにすればいいか、遺品の処分をどのように考えるべきかを解説していきます。
お焚き上げなどの供養をするのがおすすめ
まず、具体的な対処法としてあげられるのが「遺品の供養」です。これは宗教や宗派によって異なりますが、仏教・神道では「お焚き上げ」をするのが一般的です。
お焚き上げとは、簡単にいうと「燃やして供養する」というもの。お正月の15日に神社で見られる「どんど焼き」と同じです。
合同供養なら無料の遺品整理業者も存在する
気になるのは、供養の費用がどれだけかかるかでしょう。これは、他の方と合同で行う「合同供養」であれば、無料でできる遺品整理業者も存在します。
合同といっても「皆で立ち会う」という必要はありません。立ち会いはなしで、それぞれの業者が提携する寺院や専門の供養施設などで供養を行います。
当然ながら、仏道の世界で「お金のあるなしによって供養の差別をする」ということはありません。合同供養といっても、正統な儀式の手順にのっとって、僧侶が心を込めて供養してくれます。
オプションで「個別供養」にする手もある
「合同供養だとお金をケチったようで、故人に申し訳ない…」という方もいるでしょう。あるいは、あなたが思っていなくても、親戚の方などがそういうかもしれません。
この場合は、オプションで個別供養・自宅供養などを選べる業者も存在します。その場合は、おおよそ3万円~5万円程度が必要です。
弊社エコアールでは、ご自宅に僧侶をお呼びしての個別供養を2万円から承っております。もし興味がおありでしたら、詳しい内容などもご質問・ご相談いただけたらと思います。
(お焚き上げについては下の記事で詳しく解説しているので、こちらも参考になさってみて下さい)
故人は「物を捨てたら怒る人だったのか」を考える
そもそも、遺品を捨てることの罪悪感というのは「故人」に対して抱くものです。親戚や周りの人に対してではありません。
ということは、罪悪感を覚える気がしたとき、「あの人は、遺品を捨てたら怒るような人だっただろうか」と考えるべきです。もしかしたら、そうだったかもしれません。
しかし、それに死後まで付き合う必要があるでしょうか。逆に死後も「遺品を捨てにくい」というほど大切に思ってもらえる人は、当のご本人が「そんなことは全然かまわない」と、生前も死後も思われている(いた)はずです。
結論をいうと「捨てていい」
あえて単純化していうと、下のようになります。
- 本当に大切にすべき人なら、遺品を捨てたくらいで怒らない
- 遺品を捨てて怒るような人なら、大切にする必要はない
あえて単純化しているので、後者の方は少々厳しい物言いに聴こえるかもしれません。しかし、あなたが故人だったと考えてみてください。そして、あなたが「私の遺品を捨てた!」と怒っているところを想像してください。
ご遺族は、このようなあなたを大切にするべきでしょうか。答えは「ノー」でしょう。価値観は人それぞれですが、一般的な日本人の価値観だと「ノー」となるはずです。
大切にすべき人は、遺品を捨てても怒らないし悲しまない
死後も大切にするべき人は、遺品を捨てて怒ったり悲しんだりする人ではないのです。悲しむことはあるでしょう。
しかし、それはあなたが故人のことを「どうでもいい」「さっさと忘れたい」と、ネガティブな気持ちで捨てた場合です。罪悪感を覚えるほど大事に思って、悩んだ上で捨てるのであれば、しっかりした故人であれば、悲しんだりしないはずです。
もちろん、どのようなレベルで「しっかり悩んだのか」というのは難しいところでしょう。このようなとき、人は儀式を行います。「こうやってわざわざ故人のために時間や労力を使うくらい、大切に思っていた」ということを示すのです。
それが形骸化してしまっているのが現代の冠婚葬祭ですが、本来の儀式の意味は、そのようなものなのです。そのため「捨てると決めた」「でも、適当に捨てるわけではない」という意思を故人に示したい場合は、供養などの儀式を行っていただくといいかと思います。
このようなあなたの意思表示を、故人はきっと歓迎してくれるでしょう。「自分がいなくても強く生きていってくれる」と安心するはずです。
物も学校も、常に卒業しなければならない
私たちは、物でも学校でもすべてを「いつか卒業」しなければいけません。どれだけ学校の仲間が大切でも、ずっと一緒にいられるわけではありません。卒業するのはいいことです。
「卒業しても会い続ける」と言っても、いつかは分かれます。どれだけ仲が良くても、順番に死んでいくからです。
このように、人間関係については、私たちは常に「卒業」しなければいけない生き物です。そして、これは物でも同じです。
幼児の頃の大切なものを、残していなければいけないのか
まだ幼児だったころ、誰でも「大切なもの」を持っていたはずです。ぬいぐるみのこともあれば、プラレールのようなおもちゃのこともあるでしょう。
何にしても、その大切な物の「ほとんどを卒業」したはずです。捨てたか、誰かにあげたか、売ったかはわかりません。
しかし、当時大切だったもののほとんどを、今は手元に残していないはずです。人によっては100%、残している人でも98%くらいは処分しているでしょう。
「それであなたの子供時代の思い出は消えたのか」と言ったら、答えは「ノー」のはずです。物が消えても、思い出は残っているでしょう。「あれから50年も経った」という年数が伸びていくため、むしろ思いは強くなっていることも多いはずです。
大切なのは物ではない
つまり、大切なのは「気持ち」であり、物ではないのです。当たり前のことのようですが、それを理解しないと「汚部屋の住民」に近づいてしまいます。
ゴミ屋敷とまではいかない汚部屋の場合、このような「感情的に捨てられない」という原因が多いのです。
- 思い出の品だから捨てられない
- 人からもらった物で、申し訳ないから捨てられない
このような理由で「捨てたら悪い」と思って捨てられず、徐々に汚部屋になってしまうということです。「心は物の中にある」と思ってしまうと、そうなるわけですね。
心が「行動の中にある」と考えるのは正しいことです。しかし「物の中にある」と考えるのは、間違っています。それはここまで説明してきた通りです。
もちろん「形見の品を取っておく」というのも、一つの行動です。しかし、古今東西「形見の品」というのは、1つか2つです。部屋を占領するほど大量の形見の品など、もはや価値はないでしょう。
「形見の品を取っておく」にしても、その価値はやはり「大部分を捨てることで成り立つ」のです。たった一つか二つの形見を大切に持ち続けるから、その形見に込められる念も強くなるのです。
このような理由から、遺品を捨てることに罪悪感を覚える必要はない、と考えてください。
遺品はどこまで捨てるべき?3つの考え方
遺品がどこまで大切かは個々人の価値観によります。最終的には「自分で決める」という結論になるでしょう。
しかし、当然ながら「迷っているからヒントを探している」のだと思われます。そのため、ヒントにしていただけるような考え方を、3つご説明します。
家中に物があるなら、その大半は要らない
まず、家中に物がある場合、そのほとんどは要らないと考えてください。たとえばあなたが親元を離れていて、親御さんが亡くなって実家に誰もいなくなったとします。
そのとき、親御さんが使っていた家具や日用品、そして不用品が家の全体にあるでしょう。これを「全部取っておくべき」という人はいないはずです。
たとえば志賀直哉などの文豪は「旧居」が残っており、その家具もある程度残っています。しかし、ごくわずかです。志賀直哉などの文豪でも「ほとんどの物は捨てられた」のです。
時間の経過とともに劣化して「捨てざるを得なくなった」物もあるでしょう。しかし、どの道「最終的には捨てることになった」のです。
そう考えると、下のようにいえます。
- 故人の家具や日用品をずっと取っておくことはできない
- いつかは必ず処分される
- それが遅いか早いかの違い
あとは「いつやるのか」というタイミングだけの問題です。やはり、「すぐには気持ちの整理がつかない」ということが多いでしょう。
その場合は無理にやる必要はありません。しかし、気持ちの整理さえついたのであれば、「本来、家中にある物のほとんどは要らない」と考えるのがいいかと思います。
本当に必要なのは写真・日記・手紙程度
家具などと違い、故人の面影を感じられる写真や日記、あるいは手紙などは残しておく方がいいでしょう。手紙はお友達からもらったものなどもあるでしょうが、中には「故人にとって大切だった手紙」があるはずです。
それが何かわかることもあれば、わからないこともあるでしょう。しかし、長らく離れ離れだった子供時代の親友が、いつか会いに来るなどの可能性もあります。
(ドラマや映画のようですが、死ぬことがわかったときにこのような行動に出る方は多いものです)
そうしたときに、昔の手紙が残っていると、思いがけない喜びがあるかもしれません。もちろん、何もないことも多いでしょうが、とりあえず手紙などは「何があるかわからない」わけです。
そのため、写真・日記・手紙の類は、当面は残しておくのがいいかと思います。
売れるものは売っていいのか
これは多くの人が悩むところでしょう。カメラなどの高価な形見の品は、売ればお金になります。しかし、「それは捨てる以上に罪悪感がある」という方も多いかと思います。
これは完全に個人の価値観によりますが、売ることにも人間的な意義があります。その理由を説明しましょう。
捨てるのは、そのアイテムを殺すことである
あえてネガティブな言葉を使うと、捨てるというのは、そのカメラ・楽器などのアイテムを「死なせてしまう」ことになります。お焚き上げなどをして、「もう二度と使えないようにする」わけです。
いわば「故人に殉死させるようなもの」です。実際、ものによってはそうすべきこともあるでしょう。偉大なギタリストなどであれば「このギターは、彼と一緒に燃やすべきだ」ということもあるかもしれません。
しかし、そこまで強烈に故人と一体化した品物でなければ、むしろ「物を生かしてあげる」方が、人間として正しいでしょう。誰だって、カメラを燃やすより、誰かに使ってもらう方が罪悪感を感じないはずです。
この点で「まだ使えるものを売ることには、人間的な意義がある」といえるでしょう。
無料で譲るのは?
これもありです。しかし、筆者個人としてはおすすめできません。
理由は、無料で手に入れたものを、人間は大事にしないからです。これは誰でも思い当たるところがあるでしょう。
人間は、苦労して手に入れたものを大事にするのです。これが「高いお金を払ったから捨てられない」という現象にもなってしまうのですが、何にしても「お金を払う人の方が、大事に物を使ってくれる可能性が高い」といえます。
つまり、カメラなどのアイテムを大事に使ってもらおうとしたら、やはり「売る」のがいいのです。「お金にする」と考えるのではなく「そのカメラのために犠牲を払ってくれるくらい、大切にしてくれる人に渡す」と考えましょう。
形見を捨てられないときに意識すべきポイント
遺品の中でも、特に形見の品は捨てにくいものです。ここでは形見を捨てられない」と悩んでいるときに、意識すると良いポイントを3つ説明していきます。
「形見分け」で押し付けるのは絶対にNG
まず「やってはいけないこと」から書くと、形見分けを「誰かに押し付ける」ことはやめましょう。これは相手が家族や親戚でも、友人や知人でも同じです。
形見分けはあくまで「亡くなった人を思い出すために、その形見を持っておきたい人」がもらうものです。「形見は捨てにくいから、誰かに渡してしまおう」という考え方では、絶対にするべきではありません。
「そんな人がいるのか?」と思った場合
上の説明を読んで「そんな形見分けをする人がいるのか?」と思うかもしれません。しかし、これが意外にいるのです。
明らかに「合理的でない考え方」なのですが、そうした合理的な考え方ができない人ほど「怨念」のようなものを異様に恐れるのです。
その人が「形見を捨てられたら怒る人」だからである
少々冷たい物言いになるかもしれませんが、こうした方が「怨念」を恐れるのは、他ならぬその人が「そういう人」だからです。つまり、その人が「自分が死んだとき、形見を捨てられたら怒る」という人だから、そうした怨念があると思ってしまうのです。
このため、形見の品を強引に誰かに押し付ける人は「意外といる」のです。ただ、この記事を読んでくださっているような方なら、おそらくその心配はないでしょう。
(なお、この点も含めて形見分けのルールなどは、下の記事を参考にしていただけたらと思います)
形見は「一つか二つだから価値がある」と考える
形見を持っておくのはいいことでしょう。しかし、たくさんは要りません。
ドラマや映画の「形見」を思い出してください。登場人物が形見の品を見て、誰かのことを思い出すとき「部屋いっぱいの形見の品」があるでしょうか。
絶対にないはずです。ほぼすべての作品で、形見の品は髪の毛や懐中時計など「手のひらに収まる程度のもの」でしょう。
形見とはそういうものなのです。故人の記憶さえ呼び起こしてくれればいいものであり、大きなものが大量にあって場所を占領していたら、故人との思い出もむしろ味気ないものになってしまうでしょう。
「形見はいいものだが、わずかだから価値がある」ということを理解していただくと、形見の品の処分もしやすくなるでしょう。
動物は死者のことをいつまでも思ったりはしない
「形見の品を捨てられない」と悩んでいる方の中には「実は捨てたい」という方も多いものです。
- 自分の本心にはもう気づいていて、捨てていいと思っている
- しかし、それをすると「冷たい人間」になってしまった気がする
この「自分の本心には気づいているが、それを実行すると冷たくなってしまう気がする」というのは、多くの場面で見られます。たとえば「冠婚葬祭に出るのを断るかどうか」もその一つでしょう。
このときは「人間は本来動物である」と考えるのが一つのヒントになります。動物は、死んだ仲間のことなどすぐに忘れます。生まれた以上、死ぬのは当たり前だからです。
そもそも、植物も動物も毎日他者の命を奪って生きています。植物は「他の植物の生息地を奪う」という殺生をしています。一時期、セイタカアワダチソウがススキを駆逐して問題になったことが、その典型的な例です。
筆者が飼っていたヒヨコの場合
筆者は中学時代にヒヨコを2羽飼っていましたが、1羽をペットの犬が殺してしまったことがあります。そのときは夕方でしたが、事情を知らないもう1羽が、死んだ1羽を探してピヨピヨと鳴いていました。いつも夕方になると一緒に小屋に戻っていたのですが、その相手がいなくなってしまったからです。
このときは、おそらくヒヨコも寂しがっていたか、少なくとも不思議がっていたはずです。しかし、翌日からは鳴くこともなく「平常運転」でした。
寂しくても我慢していたのか、まったく忘れていたのかはわかりません。しかし、少なくとも「行動はまったく普通だった」のは確かです。
こうした動物を見て「冷たい」と思う人はいないでしょう。ヒヨコだけでなくあらゆる動物がそうやって生きているのに、なぜ人間だけは「いつまでも誰かの死を悲しまなければいけない」というルールがあるのかを、疑問に思うべきです。
自然に思い出すのはいいことである
もちろん、亡くなった方のことを思い出すのはいいことです。しかし、それは世間などから強制されることではありません。
たとえば故人が好きだった歌が街角で流れてきたときなど、不意に、自然に思い出すことはあるでしょう。そのような気持ちは人間らしいものであり、良いものです。
要は、故人のこと思うにしても忘れるにしても、自然に任せるのがいいということです。アリストテレスが言うように「人間は社会的な動物」ですが、それは仕事などの義務さえ果たせばいいのです。
「死んだ人のことをいつまで思い出すか」というルールまで、世間に合わせる必要はないのです。「喪に服す」などのルールはありますが、心の中まで「49日間悲しまなければいけない」などと考える必要はありません。
こう考えると、形見の品をどのように捨てるか、残すかということにも「自然な答え」を出せるでしょう。
まとめ
遺品を捨てられない理由が精神的なものである場合「業者に依頼して何とかする」ということはできません。カウンセラーなら相談に乗れることもあるでしょうが、最終的には「その方自身が、自分の人生と向き合う」というのが、唯一の解決策となります。
- 思い出とは何か
- 自分にとって故人はどういう人だったか
こうしたことは、有資格者のカウンセラーでも結論を出せないためです。最後は自分の心に聞かなくてはなりません。
物理的なお手伝いなら、お任せください
一方、精神的なハードルをすでに超えられて「後は物理的な問題だけ」という場合は、弊社のような遺品整理業者がお手伝いさせていただくことが可能です。時間がない、体力的に厳しいなどのケースでは、ぜひお気軽にご相談いただけたらと思います。
この記事で書いてきた通り、弊社のスタッフも日々「残された方にとって、故人の思い出とは何か」ということを考えております。こうしたことも考えながら、自分の身内のように誠心誠意、遺品の仕分けをさせていただきます。
ご相談やご質問は、電話とメールの両方で年中無休でお受けしております。大切な方が亡くなられたあと、お気持ちの整理がついたときには、お気軽にご相談くださいませ。
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